帰国

懸賞 2012年 07月 10日 懸賞

無事帰国しました~。

とにかく「暑かった」のが第一印象(笑)。
湖、アドリア海ともにすばらしい自然、ローマ帝国、ヴェネツィア共和国、オスマントルコ、オーストリアの影響を受けた情緒溢れる町並みと遺跡の数々、等々、見所いっぱいの旅でした。

後半戦は1泊ごとの移動だったため、時間的にも体力的にもオンタイムでの写真のアップはできませんでした。
落ち着いたら、それぞれのエントリーに加筆します。また、食事写真は新たにアップしますので、少々お待ちください。
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# by ciao_firenze | 2012-07-10 15:49 | 旅行

サラエボで値切り、ミュンヘンで名画鑑賞

懸賞 2012年 07月 09日 懸賞

7/8(月)の第10日は、まずは簡単な市内観光。
ホテルの周りをくるりと小一時間回っただけですが、イスタンブールのグランバザールのミニ版あり、キャラバン・サライ(隊商宿)あり、モスクあり、というまるでトルコのような町並みを歩き続けると、ある場所から突然周囲はハプスブルグ支配下の建物に。300mでイスタンブールからウィーンまで飛んできたようで、まさに東西の接点ということを実感。

ツアーのお仲間に、イスタンブールのグランバザールのトルコ商人に「あなたは値切りがうまい」とお墨付きをもらったというおじさまがいたので、値切り指南をしていただき、銀細工のペンダントトップを言い値の35%以上引きでゲット。
コツは値段交渉をして向こうの言い値に従わず、一旦「じゃあいらないから帰る」と店を出ることだそうです。そうすると必ず「ウェイト」と呼び止めるとのこと。実際にその通りになったのでびっくり。2段階で交渉するのがポイントとのこと。

午後早い便でミュンヘンへ。
あまり時間がなかったけど、当初の予定通りアルテ・ピナコテークに直行。同じ志のツアーのお仲間のおじさまおばさまたちと名画を堪能し、その後迷いながらも中心部のマリエン・プラッツへお散歩。時計塔を見て、地下鉄でホテルへ無事帰還。

明日はついに帰国です。朝が早いので、写真等詳細はまた帰国後に。
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# by ciao_firenze | 2012-07-09 07:01 | 旅行

ボスニア・ヘルツェゴビナへ

懸賞 2012年 07月 08日 懸賞

第9日は7/7(土)ドブロヴニクからボスニア・ヘルツェゴビナに入り、世界遺産のモスタールを見てからサラエボへ。
モスタールは気温40℃!しかし、普通の欧州の民家の間からそびえ立っているのは、教会の塔ではなく、モスクのミナレット。首都サラエボのホテルで行き当たった結婚式の音楽やダンスはまるでイスラム。
ジプシーの子供もいるし、まだ内戦の傷跡が生々しい。町の中にはふっるーい路面電車が走り、大通りの両側にはユーゴ時代に建てられたボロボロの高層マンション。クロアチアとの貧富の格差も実感します。

本日もあまりの暑さと長距離移動で疲労が溜まっているので、詳細は帰国後に。
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# by ciao_firenze | 2012-07-08 03:00 | 旅行

ドブロヴニク

懸賞 2012年 07月 07日 懸賞

第8日の7/6(金)はドブロヴニクを満喫。
ホテルはVIPが泊まる超高級ホテル(の新館w)。
8時半に城壁内の旧市街に入り、市内の見所を回ってから、船でアドリア海ミニクルーズへ。昼食後はロープウェーでスルジ山に登って町を一望。
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下りてきてからは市壁を半周。買い物をしてから旧市街の旧港を望むビーチで一泳ぎ。そのあとホテル前のプライベートビーチでも泳いでから、夕食後も旧市街の散策。
暑さもものともせずたっぷり遊び回った1日でした。またまた相当疲れたので、詳細は帰国後に。
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# by ciao_firenze | 2012-07-07 06:37 | 旅行

世界遺産スプリット

懸賞 2012年 07月 06日 懸賞

第7日7/5(木)はディオクレティアヌス帝の宮殿跡がそのまま旧市街になっているスプリットを観光。

ディオクレティアヌスは3世紀末に現在のスプリット近郊、当時のダルマチア地方の州都のサロナに解放奴隷の子供として生まれました。ローマ軍の中で頭角を現し、284年にローマ皇帝に。帝国を4分割統治し、303年にはキリスト教徒の大迫害を行い、多くの殉教者を出しました。
それまでローマ皇帝といえば、暗殺などにより天寿を全うすることが極めてまれでしたが、ディオクレティアヌスは自らの意志で305年に皇帝を引退、故郷のスプリットに宮殿を建て、311年に亡くなるまで静かに余生を過ごしました。
コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したのは、ディオクレティアヌス没後わずか2年後の313年のことです。

宮殿跡は、ローマ帝国の衰退、滅亡と共に廃墟になっていましたが、ディオクレティアヌス没後300年ほど経った頃の7世紀、スラヴ系民族の襲撃を受けたサロナの住民たちが宮殿の廃墟に逃げ込み、宮殿の壁や床、柱などの石材を利用して住み着きはじめました。これが町としてのスプリットの起源となっています。

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宮殿の地上部分は次第に建て替えられてしまいましたが、地下部分は長い年月の間に土中に埋もれていたため、当時の宮殿そのままの造りが残っています。現在は土産物店が軒を連ねています。

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宮殿の地下部分は倉庫などとして使われていたようです。全く同じ造りだった地上部分の往年の様子も想像できます。

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まごうことなきローマの煉瓦造り。ローマのネロ帝の黄金宮殿跡を思い出します。

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宮殿の中心に位置する中庭(ペリスティル)にはコリント式列柱が連なっています。
柱の奥には、かつてはディオクレティアヌスの霊廟がありましたが、大聖堂に建て替えられました。ローマ帝国で最後にキリスト教の大弾圧をした皇帝の墓が、殉教者を祀る大聖堂になってしまうとは、なんとも歴史の皮肉ですね。

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ローマ帝国を4分割し、東の正帝だったディオクレティアヌスは、トルコ、シリア、エジプトを統治していました。エジプト遠征時に持ち帰ってきたスフィンクスは、11体発見されています。

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皇帝の私邸の玄関口だった前庭部分は、音響効果がいいため、クロアチアの伝統音楽のクラッパ(男性4人によるアカペラ合唱)のグループが演奏を披露していました。 

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かつての宮殿の壁のなごり。

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今でも城壁の中には600人ほどの住民がいるそうです。

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旧市街には、ゴシック、ロマネスク、ルネッサンス、バロックなど、ありとあらゆる様式の建物がびっしり建っていて、さながら西洋建築史のモデルのよう。

このあと、クロアチアの海岸線をバスで移動、ドブロブニクを目指します。
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# by ciao_firenze | 2012-07-06 03:00 | 旅行