世界遺産スプリット

懸賞 2012年 07月 06日 懸賞

第7日7/5(木)はディオクレティアヌス帝の宮殿跡がそのまま旧市街になっているスプリットを観光。

ディオクレティアヌスは3世紀末に現在のスプリット近郊、当時のダルマチア地方の州都のサロナに解放奴隷の子供として生まれました。ローマ軍の中で頭角を現し、284年にローマ皇帝に。帝国を4分割統治し、303年にはキリスト教徒の大迫害を行い、多くの殉教者を出しました。
それまでローマ皇帝といえば、暗殺などにより天寿を全うすることが極めてまれでしたが、ディオクレティアヌスは自らの意志で305年に皇帝を引退、故郷のスプリットに宮殿を建て、311年に亡くなるまで静かに余生を過ごしました。
コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したのは、ディオクレティアヌス没後わずか2年後の313年のことです。

宮殿跡は、ローマ帝国の衰退、滅亡と共に廃墟になっていましたが、ディオクレティアヌス没後300年ほど経った頃の7世紀、スラヴ系民族の襲撃を受けたサロナの住民たちが宮殿の廃墟に逃げ込み、宮殿の壁や床、柱などの石材を利用して住み着きはじめました。これが町としてのスプリットの起源となっています。

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宮殿の地上部分は次第に建て替えられてしまいましたが、地下部分は長い年月の間に土中に埋もれていたため、当時の宮殿そのままの造りが残っています。現在は土産物店が軒を連ねています。

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宮殿の地下部分は倉庫などとして使われていたようです。全く同じ造りだった地上部分の往年の様子も想像できます。

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まごうことなきローマの煉瓦造り。ローマのネロ帝の黄金宮殿跡を思い出します。

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宮殿の中心に位置する中庭(ペリスティル)にはコリント式列柱が連なっています。
柱の奥には、かつてはディオクレティアヌスの霊廟がありましたが、大聖堂に建て替えられました。ローマ帝国で最後にキリスト教の大弾圧をした皇帝の墓が、殉教者を祀る大聖堂になってしまうとは、なんとも歴史の皮肉ですね。

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ローマ帝国を4分割し、東の正帝だったディオクレティアヌスは、トルコ、シリア、エジプトを統治していました。エジプト遠征時に持ち帰ってきたスフィンクスは、11体発見されています。

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皇帝の私邸の玄関口だった前庭部分は、音響効果がいいため、クロアチアの伝統音楽のクラッパ(男性4人によるアカペラ合唱)のグループが演奏を披露していました。 

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かつての宮殿の壁のなごり。

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今でも城壁の中には600人ほどの住民がいるそうです。

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旧市街には、ゴシック、ロマネスク、ルネッサンス、バロックなど、ありとあらゆる様式の建物がびっしり建っていて、さながら西洋建築史のモデルのよう。

このあと、クロアチアの海岸線をバスで移動、ドブロブニクを目指します。
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by ciao_firenze | 2012-07-06 03:00 | 旅行

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